1月25日「今日の礼拝堂」
顕現節第3主日 礼拝
今週の「つどいの祈り」 神様。世を照らす光として来られた御子をほめたたえます。私たちが、罪と死の陰に覆われるとき、みことばの光によって、導き、励ましてください。 救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン
○顕現節第3主日 説教
イザヤ8:23-9:3 コリント一1:10-18 マタイ4:12-23
「世界の片隅で」
《イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔のカファルナウムに来て住まわれた》(4:12-13)とマタイは記しています。洗礼者ヨハネを捕らえたのは、ヘロデ・アンティパス。ヘロデ大王の息子の一人で、当時のガリラヤの領主でした。主イエスはこの知らせを受けて《ガリラヤに退かれ》るのです。マタイはこれを《預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった》(4:14)と書いています。 都であるエルサレムの人々から見れば、ここはまさに辺境。そして、文化的にも宗教的にも劣ると差別されているような場所だったのです。このような場所から主イエスは福音宣教を開始されました。 福音書記者マタイは《退いた》と表現していますが、この《退く》という言葉は決して消極的なものではありません。ガリラヤの領主が洗礼者ヨハネを捕らえたのですから、我が身を守ろうとすれば他所に行くべきです。しかし、主はあえて権力と暴力をもって圧倒しようとする勢力がある所から、ご自身の具体的な宣教活動を開始されたのです。そして家族と共に過ごしていたナザレを去り、カファルナウムを拠点とされたということは、人間としての基盤となる場所、前提を放棄する事を意味します。つまり主は、人間イエスとして生きてきた中で持っていたすべてを手放し、新しい道へ踏み出されたのです。そこには人間的な知恵や蓄えはなにひとつ無く、父なる神への信頼があるのみです。 先週のヨハネによる福音書の物語とは視点が変わり、今日の物語では、ガリラヤ湖で漁師に戻っているペトロやアンデレたちに主ご自身が声をかけて、従うものとなるように招かれています。あれれ?どういうことかしら?と怪訝に思われる方もおられるかもしれませんが、洗礼者ヨハネが領主によって捕らえられたことにより、弟子たちが故郷に戻って漁師を続けていたとしても不思議ではありません。むしろ、大きな痛手、痛み、挫折を味わい心に傷を持っていたであろう彼らに、主が声をかけ、ご自分の弟子として招かれたのだとしたら深い慰めを感じます。
弟子たちを招く《わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう》との言葉は“あなたがたが人々を救う立役者となりなさい”という意味ではありません。《わたしについてきなさい》と言われているように、主の呼びかけにこたえ従うように促されているところが重要です。そう、どのような時でも、先立ってくださるのは主イエスご自身。主の声を聴き、招かれた者たちは、その声にまず聴き従うことが求められ、ついて行けばいいのです。
主イエスに従う者たちは、その救いの業の目撃者、それを告げ知らせる宣教者として、主と共に歩む中で整えられてゆくのです。弟子たちの中には、早とちりすることや見当違いで叱られる者たちもいます。それでいいのです。主が弟子を招かれるのはその人が役に立つとか有益だからではありません。主ご自身が始められた具体的な神の働き、そこで生きる者/生かされている者として喜びをわかちあうためだからです。 主イエス・キリストが私たちと同じ生身の肉体を持った人間として世に下られたのは、失われたもののようになっている一つ一つのいのちに神の息吹が吹き入れられ、神に喜ばれていること、愛されていることを伝えるためです。《わたしについてきなさい》という招きの声は、今日ただいまを生きる、私たちにも呼びかけられています。私はあなたに出会うために、あなたと伴うために来たのだよ、と主は声をかけてくださいます。世界の片隅に生きる私たちもこの招きに従う者となりましょう。(岡田)
《 来週の礼拝 》
#2月1日 午前10時30分 顕現節第4主日 礼拝
*司 式:岡田 薫牧師
*説 教:岡田 薫牧師「 幸いなるかな、主に信頼をおく人 」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:青木比呂子さん
*礼拝当番:秋田直枝さん
*聖 書:ミカ 6:1-83 (旧1455)、 使徒言行録 2:47/コリント手紙一 1:18-31、マタイ 5:1:12 (新6)
* 讃 美 歌:337番、259番(1.2.8.9)、聖公会282番
