1月11日「今日の礼拝堂」
主の洗礼の主日 礼拝
今週の「つどいの祈り」 神様。あなたの霊を注がれ、あなたの御心に従い、御子イエス・キリストは、ひざまずいて洗礼を受けられました。あなたの御前にひざまずき、御心に従うために、私たちに聖霊を注いでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン
○主の洗礼の主日 説教
イザヤ42:1-9 使徒言行録10:34-43 マタイ3:13-17
「ふさわしいこと」
今日は主の洗礼日。今日から私たちは青年となられたイエスが救い主(メシア=キリスト)として活動されていく姿を通して福音を聞いてまいります。この洗礼の場面は、公の場においてはじめてイエスが能動的に動き、言葉を発するところです。
幼子イエスは家族と共にエジプトでの難民生活を終えたのち、ガリラヤのナザレに移り住み、いつの間にか父ヨセフは歴史の表舞台から姿を消しました。いつ、どのようにしてという詳細は分かりませんが、自分の成すべき務めを果たしたということなのでしょう。長男として家族を支えていたであろうイエスでしたが、洗礼者ヨハネの悔い改めを求める声に導かれ、ナザレをでます。ガリラヤ地方からも多くの人たちが悔い改めの洗礼を受けるためにヨルダン川に向かっていたようですから、名もなき市井の人々共にイエスも伴われたということがわかります。
ヨハネは《荒野》という辺境の地で、人々に「悔い改め」を宣べ伝えました。それは、当時の神殿で行なわれていたような、儀礼的・形式的な死んだ知識の切り売りではなく、イザヤの預言にあるとおり《悔い改めよ。天の国は近づいた》(3:2)と、語る者、荒野で叫ぶ声として最後の預言者の務めを担っています。神の言葉を断定的に語るヨハネの呼び声は《エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から・・・》(3:5)とあるように実に多くの人々に届きました。各地から洗礼を受けるためにヨルダン川へやってきた人々の群れの中に、ガリラヤのナザレから出てこられたイエスも紛れておられたのです。
沢山の人たちにまぎれて主イエスがおられることに気づいたヨハネは《わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか》(3:14)と驚いて思わず声を上げています。しかし主は《今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです》(3:15)と言って、ヨハネから洗礼をお受けになりました。
この断固たる主イエスのご意思こそが、今日の福音を探るポイントです。神の約束の成就として、聖霊によってマリアに宿られた救い主は、真の人間としてこの世にお生まれになりました。そして、私たちと同じように人生の試練や喜びを重ねながら成長し、今、洗礼者ヨハネの叫びに呼応して、悔い改めの洗礼を受けるためにヨルダン川に出てこられたのです。神の御子が罪人たちと同じところに立つために。このヨルダン川の岸辺に立ち、主イエスはこれからご自身の歩むべき道が始まろうとしていること、その先に十字架があることをしっかりと見据えておられます。神が私たちと共にある、ということは限りある肉体を持った幼子としてお生まれになった時にはっきりと示されました。名づけの日、その子にはイエスという名(=神は我々と共におられる)が授けられました。その神の御子が、今日、罪人である私たちと共にあるために、悔い改めの洗礼をお受けになったのです。神の御子は、私たち人間の罪を担うため、罪人である私たちと連帯するために、宣教の第一歩を洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるという行為とされたのでした。ヨルダン川の水に共に沈み、浮き上がる。この行為は単なるパフォーマンスではありません。罪なきお方が、罪人と同じところに立つということで、あなたと共にあるという力強いメッセージであり、具体的な連帯なのです。(岡田)


《 来週の礼拝 》
#1月18日 午前10時30分 顕現節第2主日 礼拝
*司 式:岡田 薫牧師
*説 教:岡田 薫牧師「 出会い 」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:小笠原里子さん
*礼拝当番:青木比呂子さん
*聖 書:イザヤ 49:1-7 (旧1142)、 コリント手紙一 1:1-9 (新299)、ヨハネ 1:29:42 (新164)
* 讃 美 歌:166番、307番、新生73番

