12月7日「今日の礼拝堂」

待降節第2主日 礼拝 

今週の「つどいの祈り」 神様。御子の到来の知らせ、救いの知らせが、荒れ野に響きます。私たちの心の耳を、心の目を開き、みことばに聴き従う私たちにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。  ♪ アーメン

 「平和の君」

今日はアドヴェント第2主日です。2本目のろうそくは「平和」を象徴すると言われています。福音の日課は、洗礼者ヨハネの物語です。福音書記者マタイは、この荒野の説教者を《主の道を整え、真っ直ぐに》する、先駆者として位置づけています。悔い改めを迫る説教者であるヨハネの登場は、「今・ここで」何が起こっているかということを、当時の人々に証ししただけでなく、現代の私たちにも生き生きと語ってくれます。

《悔い改めよ。天の国は近づいた。》(3:2)と言う叫び、これは「主なる神へと向き直れ」という勧めです。この荒野からの声は多くの人たちの心を打ちました。毎日のように神殿で捧げられているあまたの犠牲や祈りには欠けていた「何か」がそこにある、と気付いたからです。悔い改めを迫るヨハネの厳しい言葉には、自分がどこを向いているのか、何に向かって祈っているのかが不明瞭になっていた人々の心を振るわせたのです。

おそらくヨハネには、この世の繁栄や人の営みの中に「死の砂漠」があることが見えていたのでしょう。だからこそ、自らは荒野の声に徹して、語るべきことのみを語りました。彼は来るべきお方を迎えるための備えをせよ、と言います。ヨハネは、全てがそろっている街から、整えられている神殿から、何もないような荒野へと出てゆくことによって神殿では見えなかったもの、荒野でしか見ることができないものに目を注ぎました。だからこそ、「悔い改めて、神の方を仰ぎ見ながら生きよ」という彼の言葉は人々の心に響くのです。これは、信仰者にとって何が大切であるか、ということを問い、各々が深く考えるようにと促します。

だからこそパウロも、《神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。》(ローマ15:7-9)とまだ見ぬローマの人々に向って言うのです。そして、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」という言葉を引用しながら、全ての民が平和の王である、主イエス・キリストを讃美するようにとすすめています。

とはいえ、地上には争いが絶えず、今まさに命の危機に瀕している人たちがいるのも確かなことです。権力や利益を守るために振舞っている為政者たちの姿は、あの大虐殺が起こったベツレヘムとちっとも変わりません。神へと向き直る事のない人は、罪の奴隷です。洗礼者ヨハネの悔い改めに導く叫びの先には、私たちを罪の奴隷から解放するために来られるお方がいます。神のご計画は壮大で、私たちの小さな頭では、理解し尽くすことはできません。しかし、私たちは今この時も、その壮大な神のご計画の中に生かされています。そして、信仰という恵みを与えられている私たちは、キリストの愛の力による忍耐も与えられています。

今年も様々な問題や事件によって痛みと苦しみの多い年でした。解決の糸口も見えない痛ましいこともあります。けれども、私たちは知っています。順境の時も逆境の時も、豊かな時もそうでないときも・・・たとえ私たちの忍耐力や精神力が尽きてしまっても、主が私たちを忍耐し、私たちを支えて、神の道からそれないように導いてくださっていることを。そして、最も希望から遠く離れているようなところに、キリストが生まれて来てくださったということを私たちは知っています。だからこそ、どんなに深い悲しみの先にも、落胆の後にも、なお光を、希望を見出すことができます。「平和の君」である主は、常に執り成す者として、私たちの真ん中に立っていてくださいます。(岡田)       

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