11月9日「今日の礼拝堂」
聖霊降臨後第22日 礼拝
今週の「つどいの祈り」:神様、あなたのうちにいのちはあり、あなたは永遠にすべてを治められます。不安や疑いからわたしたちを解き放ち、救いの約束を信じる信仰をお与えください。 救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン
○聖霊降臨後第22主日 説教
ヨブ19:23-27a テサロニケ二2:1-5,13-17 ルカ20:27~38
「生きている者の神」
この物語に子どもがいないことは非常に重要です。なぜなら、それがこの物語の兄弟たちが長兄の妻を次々と娶るレビラト婚の義務を発動させるからです。そして、最終的に誰の子どももいないのですから、もし復活があるのであれば妻と7人の夫たちの関係はかなり困ったことになるのではないか?復活などはばかばかしい。そんなことは、ありえないというサドカイ派の主張を強化するからです。これは、主イエスとファリサイ派の人々に対する神学的な挑戦であったのです。主はこれに対して《この世の子らはめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである》(20:34-36)と誠実にお答えになりました。サドカイ派の主張は、人間の論理と懐疑論に根ざしています。そして、地上の関心事と相続に重点を置いています。一方の主イエスは、サドカイ派の人々が自分たちの理解や想像しうる範囲で神の力を理解しようとしていること、地上のことに固執して神の権威に対する理解が欠如していることを指摘されているのです。主はたとえ自分の理解を超えていても、神の力、永遠の命の約束を信じ、人知を超えた神の計画に信頼を置くようにと人々に教え、勧めておられるのです。そもそも復活があることを否定しているサドカイ派の人々は、復活ということを誤解しているからこそ否定しているのでしょう。彼らは物語において、ファリサイ派が主張しているように、あくまでのこの地上の延長線上、この地上のありようと同じような形での復活というイメージを持っています。しかし、主の答えは、復活の命は地上の命とは異なることを教え、将来の希望が永遠であることを強調しています。つまり、サドカイ派は、人間の伝統や解釈に縛られ、神の力を自分たち人間の理解できる範囲に狭め、律法を学んでいても、その真実のところは理解できていない、ということをこのやり取りで露呈してしまっているのです。主は更にモーセの柴の箇所を引き合いに、神と族長たちとの契約関係を強調し、肉体の死後も彼らの命が続くことを示唆することで、神が死んだ者の神ではなく、生きている者の神であることを強調されています。つまり「神はあなたがた一人一人の名を呼びながら導かれる。あなたの命、それは、あなただけの唯一のもの。神から与えられた、たった一つの賜物。復活とは、人間の死後どうなるかを論じるものではない。復活とは、神の約束を信じること。それは、過去に生きていた人たちが、地上の命が終わってもなお、神に名を呼ばれることによって、御前に生き続けているのと、同じように、私たちの地上の命が終わってもその先に、神のみ許での永遠の命があると約束されていることを信じることである」と教えておられるのです。
この問答がなされたのは、主イエスが十字架を担うために最後にエルサレムに入られた後、過ぎ越しの祭りのために多くの人々が神殿に訪れようとしていた時です。つまり、主の十字架のときが、差し迫っている状況です。そのさなかに、主は先にある約束に目を注ぎ、神の力に信頼して歩むようにと語られているのです。神の約束は主イエス・キリストにおいて成就しました。主の十字架によってもたらされた罪の赦しと永遠のいのちの約束。これはキリスト者の信仰の中心です。この信仰という恵みを与えられた者たちは、死が終わりではなく、神とともにある永遠の命への移行であるという確信を持って生きることができます。(岡田)


《 来週の礼拝 》
#11月16日 午前10時30分 聖霊降臨後第23主日 礼拝
*司 式:小泉 基牧師
*説 教:小泉 基牧師「その絶望の先 」
*奏 楽:井上志乃さん
*聖書朗読:清水美年子さん
*礼拝当番:青木比呂子さん
*聖 書:マラキ 3:19-20a (旧1501), テサロニケ手紙二 3:6-13 (新382),ルカ 21:5-19 (新151)
* 讃 美 歌:190番、137番、増補版29番

