7月6日「今日の礼拝堂」
聖霊降臨後第4主日 礼拝
今週の「つどいの祈り」: 私たちの主イエスの父である神様。あなたはシオン、私たちを守る町、慰めの母です。あなたの平和を世界中に広めるために、私たちの人生の旅路をあなたの霊が共に歩んでください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン
○聖霊降臨後第4主日 説教
イザヤ66:10-14 ガラテヤ6:7-16 ルカ10:1-11,16-20
「平和の挨拶」
私たちの主なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが私たち一同と共にあるように。
《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》(10:2)という御言葉は、献身者を募る際にしばしば引用される御言葉だと思います。私が通っていた地元の教会の掲示板や入り口に貼ってあった神学校のポスターにもこの聖句が添えられていたような記憶があります。単純な私は自分の進路を考える際、生まれた時からベビーブーム世代でどこに行っても、何をしても凄まじい倍率の競争社会で生きていかねばならないのであれば、働き手が少ないところにチャレンジしてみてもいいかな?という思いを抱き始めました。そして、高校2年生の秋に初めて三鷹のキャンパスを訪ね、そこで出会った関東の同世代の仲間たちや先輩たちとの触れ合いを通して、本気で神学校を目指す決意を固めたのです。
その出会いから数えればもう30年以上の付き合いとなる仲間の内、私を含めて3人が各地で牧師としての務めを担わせていただいています。いつの間にか青年ではなくなり、いくつかの責任も与えられるようになって、あらためて仲間のありがたさをしみじみ感じています。互いに青春時代にありがちな挫折も経験し、阪神淡路大震災の被災地ボランティア活動では戸惑いや自らのふがいなさに打ちひしがれることもありましたが、福音宣教者として、牧師として世に遣わされることを願って学び続ける仲間たちと、切磋琢磨することができたので、今があると思います。また、現在も、学生時代とは違った課題にそれぞれ向き合いつつ、やっぱり切磋琢磨できていることはありがたいことだと感じています。
主イエスも72人をお遣わしになるとき、1人ではなく2人ずつを組にして派遣されています。証言者はひとりよりも複数と定めた律法(申命記19:15)もありますが、何よりも遣わされる者たちにとっては具体的な相談相手、協力者が共にいるという点は心強かったのでは?と思います。というのも、《行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。》(10:3)とも主が言われているからです。進む先は前途洋々というよりも、苦難、忍耐、練達が求められるようなところと想像できます。
さらに主は《財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。》(10:4-7)と言葉を続けられています。
ほとんど荷物も持たず、先立つものも心もとない状況で、途中で誰にも挨拶をすることなく、目的地では誰かの家に転がり込め、という指示は今風にいうと無茶振りではないかと感じてしまいます。もちろん、主は弟子たちに無茶なことをさせるためにこのようなことを言われているのではありません。
そもそも72人が遣わされた先は、主イエスご自身が行くつもりであった場所とあります。つまり、彼らが遣わされる場所は無作為に選ばれたのではなく、主が福音を伝えるために選ばれた目的地であり、個人的なかかわりを持った人もいたのだろうと考えられます。そして、これは収穫を求めるための派遣。「収穫」は、福音を受け入れる準備ができている大勢の人々を象徴しています。農耕社会において、収穫の時期は非常に重要であり、多くの労働者を必要としました。霊的な意味では、それは人々の心が福音を受け入れる準備ができていることを意味します。収穫は神のものであり、宣教は究極的には神の業であることを示されているのです。だからこそ、先ずは逗留先の拠点定め、平和の挨拶を宣言しなさいと言われているのです。
聖書において、平和は神からの賜物であり、しばしば神の臨在と恵みと結び付けられています(民数記6:24-26)。《この家に平和があるように》(5)という挨拶は、単なる挨拶ではなく、深遠な霊的な祝福なのです。というのも、ここで主は弟子たちを遣わす際に、ご自身の平和を他の人々に広める力を彼らに与えられているからです。この平和は、主イエスが宣教活動を通して宣べ伝えた神の国の到来を予感させるものです。しかし、世は主が近づいて来てくださっているのに、先週の日課にもあったように自分たちの意にそわない場合は拒絶したり、否定します。そして、《狼の群れに小羊を送り込むようなもの》とたとえられるように平和ではない状況が現実としてあるのです。
ここにいる私たちは「主の平和」を知らされる/知ることによって、神を知らない者ではなく、知る者へと変えられたものたちです。神を知らずに生きてきた者が、神と共に生きる者とされるということは、その人の人生に大きな変革をもたらします。《平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる》(6)と主が言われているのは、遣わされた者たちの責任はこの主の平和を差し出すことであり、それが受け入れられることを保証することではないということです。つまり神の召し/呼びかけに人が応えるということは、その人の選択。神とその人の問題であり、救いにおいては常に神に主権があることを強調しているのです。
だからこそ主は《どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ。』と。》(8-11)とも言われるのです。宣教という業は、あくまでもお遣わしになる方の責任においてなされることだからです。
そう、主は、ご自身の名によって遣わされた者たちの平和の挨拶を受け取ることができない人がいたとしても、それは遣わされた弟子たちの責任ではない、とはっきり言われます。それをふまえて《収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》という御言葉をあらためて聞くと、今、信じる者としてこの御言葉を聞く私たちには新鮮な響きがもたらされるのではないでしょうか?
私たちが宣教する時、神への恐れと信頼をもってあなたは生きているかという問いが同時にあるように思います。派遣されていた弟子たちが主イエスのもとに帰ってくると各々が体験したことを得意げに報告しています。《主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します》(10:17)というように彼らは悪霊祓いのような目立つ出来事を自分たちの成功体験のようにして語るのです。おそらく彼らは遣わされる前よりも自信に満ち、誇らしく感じていたことでしょう。主ご自身も彼らの報告にしっかりと耳を傾けておられます。けれども何となく、モヤモヤが残ります。その原因を考えてみると先週の日課のヤコブとヨハネに通じる弟子たちの勘違い、思い違い、そして主イエスに対する無理解がここにもあるように感じます。彼らのような無理解、勘違いが私たちにもあるのではないでしょうか?
主が弟子たちを遣わされるときにお命じになったことは“何も持たず”、“全面的に神に委ねて旅立ち”、遣わされた場所においては《この家に平和があるように》(10:5)とまず、平和の挨拶をすることでした。それぞれに授けられた権威によって、弟子たちが遣わされた場所で、主イエス/平和の君が共にいてくださる幸いを宣言し、わかちあい、平和の主が拓かれた道に共に従うようにと励まし合うことでした。ここでも、弟子たちの無理解によって、主の真意が今一つ理解できていないのです。
ルカがこの物語を記した理由には、主イエスの十字架と復活、そして、昇天の後、聖霊降臨後に弟子たちが宣教者として世に遣わされ、信じる者たちの群れ(教会)の宣教のことを念頭に置いていたと思います。主イエス・キリストはすべてのものの為に十字架に進み、死んで復活され、再び来るという約束を残して弟子たちに聖霊を送り、ご自身が行くつもりだったあらゆるところで、福音が語られ、わかちあわれることを望まれている。その働きに招かれた者たちは、何よりもまず、心を尽くして、精神を尽くして、神を畏れ、敬いつつ、愛と信頼をもって従うようにという招きだと思います。主は《悪霊があなたたがたに屈服するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい》(10:20)と言われます。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを私たち一同に満たし、聖霊の力によって、私たちを望みに溢れさせてくださるように。 (岡田)


《 来週の礼拝 》
#7月13日 午前10時30分 聖霊降臨後第5主日 礼拝
*司 式:岡田 薫牧師
*説 教:岡田 薫牧師「私の隣人とは 」
*奏 楽:井上志乃さん
*聖書朗読:小川敦子さん
*礼拝当番:小笠原里子さん
*聖 書:申命記 30:9-14(旧329), コロサイ 1:1-14(新368),ルカ 10:25-37 (新126)
* 讃 美 歌:増補35番、417番、192番

