6月1日「今日の礼拝堂」
主の昇天の主日 礼拝
今週の「つどいの祈り」: 神様。弟子たちを祝福しながら、御子が天にあげられたみわざをほめたたえます。今この時代に生きる私たちが、信仰と希望と愛に生きることができるよう、助け、励まし、祝福してください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。♪ アーメン
○主の昇天の主日 説教
「 主を見上げつつ 」
使徒1:1‐11 エフェソ1:15-23 ルカ24:44-53
祝福しながら離れてゆく主イエスを見送った弟子たちは、全身全霊が満たされる思いだったのではないでしょうか。《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内に居て、神をほめたたえていた》(24:52-53)とあるように、物理的には離れていても“主が共にいてくださる”という約束が真実であり、まさに彼らの喜びとなっていたのだと思います。使徒言行録でも同じような描写がありますね。そして、弟子たちに約束の聖霊が降ると、彼らが力を受け《エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる》(使徒1:8)と弟子たちが受け取った祝福が彼らの内に留まるだけではおさまらず、誰かに伝えたい、わかちあいたいという望みに発展し“地の果てまで福音を届ける”ようになると主は言われています。
使徒言行録を読むと、いろいろと困難はありますが弟子たちが生き生きと、確信と喜びをもって宣教活動へと出かけていく姿を見ることができます。命の危険や無理解ということがあっても、主イエス・キリストを通して世に示された神の御心を伝えたいという思いは、決して萎えることはありません。彼らは牢獄にとらえられようとも、仲間内でいさかいが起こっても、神の導きに信頼して福音を証していきました。時には主イエスと同じように癒しの業や奇跡を起こすこともありました。また、弟子たちの証を聞いて、数人から数千人の単位の多くの人々が回心に導かれ洗礼を受けたという記事もあります。
残念ながら私には、弟子たちに与えられていたような奇跡を起こす賜物はありません。しかしながら、私たちの生活のただ中にも、神の奇跡はあるのではないでしょうか?それは、ある人が御言葉や誰かの導きによって礼拝においでになり、洗礼をお受けになるという事。あるいは、幼い時に洗礼を受けていた方々が堅信に導かれるという事でもあります。自然の営みの移り変わりや、新しい命の誕生の喜び、子どもたちの成長、あるいは定められた時を走りぬいてこの世から旅立たれる方を見送るという時、そこには目には見えなくても確かに共におられる方の臨在を感じるのではないでしょうか?私たちの周囲には神の創造の業、恵みと祝福を示す恵みがたくさんあります。しかし、その世界を今私たち人間は暴力によって脅かしいびつなものとしてしまっていることも確かなことです。
先日のLWF事務局長のアンネ・ブルクハルト牧師の講演でも、現代に生きるキリスト者の今日的課題の一つは「差異に基づく合意-屈服することではなく、共通点を見いだすこと」とありました。多くの対立や暴力、不均衡の只中にある現代において、キリスト者であるということ、キリストの福音を知る者、キリストの福音に活かされる、弟子の一人として今生かされている者として、エキュメニカルな対話を続けていくこと、愛の実践に生きることの重要性をしみじみ噛みしめました。
主イエスは《罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる》(24:47)ように世界に向かって語るようにと弟子たちに命じられました。この宣教命令は現代の私たちにも同じように与えられています。弟子たちが福音を知る喜びに満たされて、出かけて行ったように、私たちもそれぞれの生活の場、生かされている場所で自分が受けた恵みの御業を伝えることができればと思います。主イエスの招きを受けて、教会の交わりに加えられた私たちは、今も両手を挙げて祝福してくださっている主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、恵みと導きに感謝をささげ、常に主をほめたたえる者でありましょう。そして、主にある喜び、希望、赦し、慰めを世に伝え、実践する者でありましょう。(岡田)


《 来週の礼拝 》
#6月8日 午前10時30分 聖霊降臨主日 礼拝
*司 式:岡田 薫牧師
*説 教:岡田 薫牧師「心を騒がせるな、おびえるな 」
*奏 楽:若井裕子さん
*聖書朗読:清水美年子さん
*礼拝当番:小川敦子さん
*聖 書:使徒言行録 2:1-21(新214), ローマ 8:14-17(新284),ヨハネ 14:8-17(25-27) (新196)
* 讃 美 歌:149番、116番、教団122番

