4月13日「今日の礼拝堂」
枝の主日・受難主日 礼拝
今週の「つどいの祈り」: 神様。あなたは受け入れない民の中に、御子は来られました。へりくだって十字架の死に至るまで従順だった御子によって、私たちは贖われます。あらゆる人知を超えたあなたの愛とみわざをおぼえつつ、御子の受難を覚え、復活の祝いに備えるこの一週間を歩むことができるように私たちを助けてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン
○枝の主日・受難主日 説教
「 歓 声 」
イザヤ50:4-9a フィリピ2:5-11 ルカ19:28-40
教会の庭にもチューリップ、クロッカスなどが太陽の光を浴びてぐんぐん成長しています。狭いところにひしめき合い、やや窮屈に見えますが競い合うように成長していく様子を見ながらいのちって本当にすごいなぁとしみじみ感じています。翻って人間の世界を見てみると、長引く不況に加えて、世界各地での紛争や戦争、暴力の連鎖が止まりません。とりわけ自国優先、経済的に優位に立つことを追い求め、他人の痛みや苦しみに思いをはせることができなくなっている人たちの姿を見るととても切なくなります。
福音の日課では《イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた》(19:28)とあるように、主イエスは弟子たちの先頭に立って十字架に至る道をまっすぐに進まれています。進みゆく先にあるのは楽しみでも喜びでもなく苦難であるにもかかわらず、主は「先に立って」進まれるのです。「先頭に立ち」ということはつまり、後続する者たちがいることを前提としています。つまり、主は“わたしの後について来なさい”と弟子たちや群衆をご自身のもとへと招いてくださっているのです。言い換えれば、先立つ主イエスへの信頼と服従が求められているのです。
とはいえ私たちは弱さも脆さも愚かさも持つ不確かな存在です。弟子たちもそうでした。口では威勢のいいことを言っていても、いざという時には頓珍漢な応答をしたり、逃げ出したり、主イエスを否定してしまうことになってひどく後悔するする者たちがいることを、私たちは知っています。弟子たちですらそうなのですから、今日ただいまを生きている私たちも、弟子たちが遭遇したような命の危機、思いもよらない悲劇に見舞われたとき、平時に考えているほどに自分が行動できるかどうか・・・私には全く自信がありません。 ミャンマーの大地震後にアトゥトゥミャンマーのサイトには、現地から寄せられてくる報告を毎日更新しながら掲載くださっています。見るのも聞くのもつらく感じる写真もありますが、同時に命つながれた人たちが、そこで互いに思いを寄せ合い、祈りを合わせ、自分の成せること、出来ることに真摯に取組まれておられる姿もあります。アトゥトゥにミャンマーは小さな団体ですが、クーデータ後に毎週祈りを重ねてきたこと、顔と顔とを合わせつつ、見える形での支援を継続してきましたので、一つひとつの写真やコメントから現地の方々の体温や息遣いが感じられるように思います。そして、物理的には離れていても、いかなる困難の中にあっても、先に立って進まれる主イエスの姿をしっかりと見つめ、この方に希望を見いだし生かされている人たちがいて、私もそこに連なる者とされているということをひしひしと感じます。
主がエルサレムに迎え入れられた時の弟子たちや人々の歓声は、救いと解放を求める声であり、これはまさに「平和の王」である主イエスの勝利を先取りした賛美の叫びです。十字架という苦難の先にある、復活という希望。主が死に勝利されたことにより、私たちは絶望の先になお希望を見ることができるようになりました。とはいえ、地上には辛く悲しい現実が沢山あります。くじけそうになる時も、闇の力に覆われてしまいそうになる時も、恐れに飲み込まれてしまうような時も、神を信じられなくなるような不確かな時もあるでしょう。だからこそ、今私たちは先立つ主イエスに希望をもって従うように促されているのです。

《 来週の礼拝 》
#4月20日 午前10時30分 復活祭・イースター礼拝
*司 式:岡田 薫牧師
*説 教:岡田 薫牧師「その朝の出来事 」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:藏谷俊夫さん
*礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん
*聖 書:使徒言行録 10:34-43(新223), コリント手紙一 15:19-26(新321),ルカ 4:1-12
* 讃 美 歌:89番、95番、教団498番

