3月9日「今日の礼拝堂」

四旬節第1主日 礼拝

今週の「つどいの祈り」:   神様。私たちを憐れんでください。荒れ野で悪魔の誘惑を退けられた御子に倣い、あなたを信じて生きるために、御言葉によって、私たちを養ってください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。  ♪ アーメン

悪魔は一見理想を実現できるかのような誘惑を主イエスに仕掛けます。しかし主は、“人はパンだけで生きる者ではないこと”“栄華を求めるのではなく、一人の僕としていかされ、生き抜くこと”“何があっても主なる神を信じ切って生きてゆくこと”を示しながら一つひとつ退けられます。主がここで示してくださった三つの条件は、とりもなおさず「人間の条件」ではないかと思います。神の似姿として創造された人間は、神ではありません。被造物の一つであり、他の被造物にはない恵みを与えられれているユニークな存在。主イエスは、神の子であるにもかかわらず、いや神の子であったからこそ、「人間の条件」をこのように明瞭に示し、ご自身もそこに留まってくださいます。

私たちはどうでしょうか?日常の様々な出来事や今世界で起こっているような痛ましい出来事に直面すると、心に波風がたち神への信頼が揺らぎそうになることもあるでしょう。私はそのような者にはなりたくない、そのような者とは違うと言いたくなるかもしれません。おそらく、その思いこそが今日主イエスが荒れ野で経験された誘惑に通じるものなのではないかと思うのです。私たちは悪や罪を“自分の外側にあるもの”として考えがちです。けれども、罪は私たちの内側にこそあります。そしてその罪を私たちは自分自身では取り除くことはできません。

主がヨルダン川で洗礼をお受けになった時《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(3:22)という天からの声を聞かれました。神の子が罪人と同じ悔改めの洗礼をお受けになった時、主はこの宣言を受け、主なる神への信頼をゆるぎないものとされました。ですから、荒野での誘惑でも悪魔に付け入る隙を与えられないのです。すでに、ここに勝利者の姿があるように思います。

主イエスが十字架に歩みを進められたのは、私たちを虜にしている罪から解放してくださるためでした。四旬節には、自己に打ち克つ心、欲望を抑制しようとする意志を示すべく、克己献金や嗜好品を控えて自制することを実践される教会もあります。ルーテル教会ではことさらにそのようなことを促すことはしていませんが、灰の水曜日礼拝の式文を見ると、日々の生活の中で自分の意識するところだけでなく、元来神が望まれているような生き方をするようにとあります。つまりそれは“主なる神が、私たちを神との交わりを喜び、すべての人類を愛し、あらゆる被造物と調和を保って生きるようになるため”にご自身の似姿として創造されたのですから、主の御許に立ち返り、そのように生きるように憐れみと愛を追い求め、各々が十字架の主を見つめつつ己を振り返り、悔い改め、主のたどられた道へと続くことができるように、聖霊の導きを祈り求めるように促されているのだと思います。

礼拝の度毎に、私たちは主なる神に向かって「思いと言葉、行いと怠り、また無関心によって、あなたから遠く離れ、御旨に背いてきました」と罪の告白をして、赦しを願っています。2025年の四旬節の歩みを始めた私たちは、ここで告白したことを心に刻み、私たちの悔い改めを受け入れ、赦しを与えてくださる神に感謝しながら、キリストの道行きに従って参りましょう。私たちが日々行うことが神を喜ばせ、私たちの人生が清くあることができるように、そして終わりの日に永遠の喜びへと至ることができるように、愛する主イエスが私たちを常にとらえてくださいますように。(岡田) 
          
       
《 来週の礼拝 》                              

#3月16日 午前10時30分 四旬節第2主日 礼拝 
*司  式:小泉 基牧師
*説  教:小泉 基牧師「 めん鶏ときつね 」
*奏  楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:小笠原里子さん
*礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん
*聖  書:創世記 15:1-12,17-18(旧19),フィリピ 3:17~4:1(新365),ルカ 13:31-35(新365)

* 讃  美 歌:175番、76番、増補版32番

                                  

    

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