1月12日「今日の礼拝堂」
主の洗礼の主日礼拝
今週の「つどいの祈り」: 神様。御子イエス・キリストは、洗礼を受ける民の中におられました。今、御前で祈る私たちも、御子の臨在と、救いの喜びを味わうことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、世の終わりまで、私たちと共におられる救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。 ♪ アーメン
○主の洗礼の主日 説教
「 天が開く 」
イザヤ43:1-7使徒8:14-17ルカ3:15-17,21-22
日課の冒頭にもあるように、メシアを待ち望んでいた民衆の多くは、洗礼者ヨハネこそが待望されたメシアではないかと考えていました。しかし、洗礼者ヨハネ自身はそれを否定し、自らはそのお方を指し示すための道具にすぎないと証します。そして、悔い改めの洗礼を受け、来るべきお方を待ち望み、そのお方が現れたならば従うようにと民衆に説教しました。まさに、後から来られる方のための道を備える者として、ヨハネは人々の心を悔い改めへと導く言葉で耕したのです。
神の御子である主イエスが、“罪を負う私たち人間とまったく同じように悔い改めの洗礼をお受けになった”という事実は、私たちを驚かせるものでもあります。しかし、真の神であるお方が真の人間として、悔い改めの洗礼をお受けになったからこそ、私たちの洗礼が《主に結ばれるもの》(ローマ6:3)であることを保障してくれているとも言えます。ルカは福音書の中で、しばしば主が祈っておられる姿を記しています。ここでも洗礼をお受けになった後、主が祈っておられたところに天が開け聖霊が鳩のように降ってきます。これは、投獄される前のヨハネが自分の次に来られるお方がどのようなお方であるかと民衆に対して証ししていたことの実現でもありました。
教会で最も重要とされている聖礼典(聖なる礼典)は洗礼と聖餐です。聖餐式は繰り返し行われることに対して、洗礼式はただ一度きりです。主イエスが弟子たちに命じたのは、他の方法ではなく洗礼というしるしを通して、救いを明らかにしていくということでした。時折、長い間教会を離れていた人が、教会生活に復帰したいと思って「もう一度洗礼を授けて下さい」と申し出たという話を聞くことがあります。また、幼い頃に自分の意思とは関係なく洗礼を受けているので、もう一回しっかり自分の意思で洗礼を受けたいと言われる方もおられます。残念ながらどちらのお申し出もお断りするほかありません。なぜなら、洗礼によって神の救いの刻印がその人には記されているのですから、神が一度刻印されたものを、人が人間的な思いで、刻印し直すことは出来ないからです。
私たち人間は、洗礼を受けた後でも、人生の中で紆余曲折があるかもしれない。そんな中で神を呪うようになってしまい迷子の羊のようになる事もあるでしょう。福音書にもそんな話があるくらいですから、きっとキリスト教の歴史と同じくらい人間の信じる力や心は脆いというか儚いものなのかもしれません。しかし、恵みの手段として施された神の刻印、恵みのしるしは消えることはない。どんな時も神はあなたと共におられるのだよという約束は真実です。そこには起き上がりこぼしに据えられているような重心があります。どんなに揺らされても、決して倒れることはないのです。なぜならそこに《これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者》(3:22)と宣言されたお方が共におられるからです。
教会の大先輩であるルター自身も、うちひしがれ、死の恐怖にさいなまれた際に「私は洗礼を受けている」と何度も口にしたといいます。私たちも心乱され、不安や恐れに取りつかれそうになった時には「私は洗礼を受けている」と何度も口にしてみてはいかがでしょうか? 神を知る喜び、神に知られているという喜びは私を/私たちを支えます。洗礼をお受けになっていない方には、あなたに備えられている喜びの日、そして神にとっての喜びの日が実現することを切に祈りつつ楽しみに待ちたいと思います。
《来週の礼拝》
#1月19日 午前10時30分 顕現節第2主日 礼拝
*司 式:小泉 基牧師
*説 教:小泉 基牧師「むだでもよい」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:青木比呂子さん
*礼拝当番:秋田直江さん、小笠原里子さん
*聖 書:イザヤ 62:1-5、コリント手紙一 12:1-11、ヨハネ 2:1-11
* 讃 美 歌:203番、377番、増補46番

