11月3日「今日の礼拝堂」

全聖徒主日召天者記念 礼拝  

全聖徒主日召天者記念礼拝 説教

       「 涙をぬぐってくださる方 」 

                                                                           イザヤ25:6-9 黙示録21:1-6a ヨハネ11:32-44

主イエスは《わたしは復活であり、命である。》(11:25)とはっきりと言われています。そして《わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。》と問われます。マルタはこれに《はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。》(11:27)と答えていますが、ラザロが葬られて四日も立っていた墓で主がラザロに声をかけようとされると《主よ、四日もたっていますから、もうにおいます》(11:39)と言って阻もうとしています。彼女は来るべき時の復活は信じていても、主イエスが今ここに命の君としておられるということを信じることは出来ていないのです。

ご自分をいのちの主、として信じることができていないマルタに主イエスは《もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか》(11:40)と言われます。そして、彼女を説得するのではなく、まさに信じることができない人々の前で、父なる神に祈り、ご自身こそがいのち・復活の主であることを行動で示されるのです。《ラザロ、出てきなさい》と名を呼ばれたラザロは復活し、姉たちのもとへと戻されたところでこの話は閉じられます。しかし、この復活させられたラザロもすでにこの世にはいません。この物語が私たちに伝えるのは、神は一度死んだ者を復活させる力をお持ちであり、主はその命をつかさどる権威を持っておられるという真理です。

私たちの教会の大先輩である、マルチン・ルターの残した言葉に「信仰のみ、恵のみ、聖書のみ」といった有名なものがあります。この背景には彼自身のとてつもなく深い死に対する恐怖と戦いがありました。その戦いの結果、ルターは死を見るのではなく、ただキリストだけを見る。ひたすらに「キリストの義」にのみすがる、という方向に転換させられます。つまり、私たち人間は死すべきものではあるが、キリストを通してこの世で復活と永遠の命を経験することが出来る。私たちのために死に、私たちのために復活された主イエス・キリストにこそ私たちの真の希望、生きる力である、つまり、信仰に生きるということは、キリストの十字架と復活を見続けるということであることを彼は発見したのです。

《わたしは復活であり、命である。》と宣言される主は、人間の最もつらく悲しい死という場面に伴ってくださる方です。そして、その絶望とも思えるところに、死では終わらない永遠の命の約束があると示してくださいます。主は私たちの涙をぬぐい、希望に目を向けさせてくださるお方です。(岡田)

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