3月15日「今日の礼拝堂」

四旬節第4主日 礼拝 

今週の「つどいの祈り」 神様。多くのことに、私たちは惑わされます。世を照らすまことの光、十字架の主を仰ぎ、救いの喜びを賛美することができるよう、私たちを支え、導いてください。 あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン



○四旬節第4主日 説教

     サムエル上16:1-13 エフェソ5:8-14 ヨハネ9:1-41

  『今は見える』

私たちは「見る」ということについて語られている御言葉に耳を傾けています。見ることは、ただ目に映るということではありません。何を見つめ、何から目をそらして生きているのか。それは、私たちの生き方そのものを映し出します。

私たちは多くの情報にさらされながら生きています。世界の出来事が瞬時に伝えられる一方で、あまりにも重く、痛ましい現実に直面すると、見ていながら「見ないようにする」こと、聞いていながら「聞こえないようにする」ことを身につけてしまいます。それは自分を守るための選択であると同時に、知らず知らずのうちに、誰かを孤立させ、声を奪ってしまうことでもあります。

福音の物語では、生まれつき目の見えなかった人が登場します。弟子たちは「なぜこの人は見えないのか」と理由を問いかけました。けれども主イエスは、その原因を説明されません。この人の苦しみを、説明や正当化の対象とするのではなく、「神の業が現れる場」として受け止め、彼の目を開かれました。しかし、この出来事は、ただ喜びをもたらしたわけではありません。人々は混乱し、正しさをめぐって議論を始め、やがてこの人は共同体の外へと追い出されてしまうのです。自分たちの理解や秩序を守ろうとする中で、最も弱い者が切り捨てられてしまう・・・それは、どの時代にも起こりうることではないでしょうか。

繰り返し問い詰められた彼が語ったのは、ただ一言でした。《ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです》(9:25)。これは、誰かを論破するための言葉ではありません。自分に起こったことを否定せずに語る、ぎりぎりの証言です。やがて主イエスは、追い出された彼と出会い《あなたは人の子を信じるか》(9:35)と問われます。彼は《主よ、その方はどんな人ですか。その方を、信じたいのですが》(9:36)と答えました。確信しきれないまま、それでも光を求める、誠実な言葉です。主はその彼に、《あなたは、もうその人を見ている》と告げられました。

第二朗読のエフェソ書では《あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています》(エフェソ5:8)とあります。そして《眠りについている者、起きよ》(5:14)と呼びかけられています。光の子として歩むとは、すべてがはっきり分かるようになることではありません。正しい答えを手に入れることでもありません。それは、自分が眠っていたことに気づかされ、見ないで済ませてきた現実に、もう一度目を開かされることなのではないでしょうか。

四旬節のこの歩みの中で、主はすでに、私たち一人ひとりに光を差し込ませておられます。語れなくても、確信がなくても、「ただ一つ、見てしまったこと」を胸に抱いたまま、私たちは今日、ここから静かに起き上がるように促されているのではないでしょうか。(岡田)


        


《 来週の礼拝 》 

#3月22日 午前10時30分 四旬節第5主日 礼拝 

*司  式:岡田 薫牧師
*説  教:岡田 薫牧師「 神の栄光 」
*奏  楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:小笠原里子さん  
*礼拝当番:楢戸恵子さん
*聖  書:エゼキエル 37:1-14 (旧1357)、 ローマ 8:6-11 (新284)、ヨハネ 11:1-45(新188)
* 讃  美 歌:76番、336番、増補版17番                       

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