3月22日「今日の礼拝堂」

四旬第5主日礼拝

今週の「つどいの祈り」 神様。あなたの息が私たちのうちにあり、あなたの息で私たちは生かされます。復活の主、いのちの主であるイエスを信じるために、私たちを聖霊によって導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、私たちの救いのため、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン



○四旬第5主日礼拝 説教 

 

    エゼキエル37:1-14ローマ8:6-11ヨハネ11:1-45

 『 神の栄光 』

 主イエスが愛する者の一人であるラザロが死んでしまいました。彼はベタニアに住むマルタとマリア姉妹の弟であり、彼女たちにとっては、一家の大黒柱と言ってもよい存在でした。弟が病に倒れたとき、姉妹は《主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです》(11:3)との言づけを託して主イエスのもとに人を遣わしました。その心の中には、ラザロの死に対する恐れがあったのでしょう。だからこそ、主であれば、きっと癒してくださるに違いないと信じ、助けを求めたのです。しかし主は、《この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである》(11:4)と言われたまま、なお二日間、同じ所にとどまられました。必死になっている姉妹とは、あまりにも対照的な姿です。やがてベタニアに到着したとき、そこにあったのは、悲しみに沈む人々の姿でした。マルタとマリアのもとには多くの弔問客が集まっていましたが、どのような慰めの言葉も、その悲しみを癒すことはできません。主イエスを迎えに出たマルタは、《主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに》(11:21)と言います。そこには、主に対する信頼と同時に、あまりにも遅すぎた到着への失望がにじんでいます。後から来たマリアも、まったく同じ言葉を口にしました。おそらくこの四日間、姉妹は悲しむだけでなく、「あれをしてやればよかった」「もっと早く知らせていれば」と、後悔や自責の思いの中で過ごしていたのでしょう。この嘆きは、決して彼女たちだけのものではありません。私たち自身の嘆きでもあります。

第一の朗読で読まれたエゼキエル書は、枯れた骨が散らばる谷から始まります。そこは、「望みは絶えた」と語られる場所でした。しかし主は、その谷を避けることなく、枯れた骨のただ中に立たれます。神の栄光は、まだ何も起きていない場所に、主ご自身が立ち続けておられる、そのあり方の中に、すでに現れているのです。

命あるものはすべて限りをもっています。「死を覚えよ」と言い聞かせることはできても、それだけでは、死への恐れを越えることはできません。恐れの中で私たちに必要なのは、死のただ中で、私たちを見失わない主ご自身です。だからこそ、「死を覚えよ」という言葉は、「主を覚えよ」という招きと結びついてこそ、希望となります。

主はマルタに向かって、《わたしは復活であり、命である》(11:25)と宣言されました。復活は、遠い終わりの日だけの出来事ではなく、今ここに立っておられる主ご自身の現実です。主は、嘆き悲しむ人々をご覧になり、ご自身も涙を流されました。その涙は、死に対する怒りであり、深い憐れみの現れでした。

神の栄光とは、苦しみを遠ざける力のことではありません。死のただ中にあっても、人を見失わず、その場に立ち続けてくださる、主ご自身のあり方です。主は今日も、私たちの嘆きの場に、すでに立っておられます。(岡田)


                

《 来週の礼拝 》                              

#3月29日 午前10時30分 主のエルサレム入城の主日・受難主日 礼拝 

*司  式:小泉 基牧師
*説  教:小泉 基牧師「自由な僕」
*奏  楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:清水美年子さん  
*礼拝当番:小笠原里子さん
*聖  書:イザヤ 50:4-9a (旧1145)、 フィリピ 2:5-11 (新363)、マタイ 21:1-11(新39)
* 讃  美 歌:77番、184番、増補版17番                           

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