3月8日「今日の礼拝堂」
四旬節第3主日 礼拝
今週の「つどいの祈り」 神様。私たちを救うために、あなたは御子を世に送り、十字架の上に渡されました。御子イエスを救い主と信じて、まことの平安に生きる私たちにしてください。 あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン
○四旬節第3主日 説教
四旬節第3主日出エジプト17:1-7ローマ5:11-11ヨハネ4:5-42
『永遠の命に至る水』
私たちは皆、心のどこかに「渇き」を抱えて生きているのではないでしょうか。思うように生きられないこと、理解されない思い、先が見えない不安。そうした渇きは、しばしば「気の持ちよう」や「その人自身の問題」とされ、個人の責任に押し込められてしまいます。しかし聖書は、渇きの原因を、もっと広いところに見ています。誰が守られ、誰が後回しにされ、誰の声が聞くに値しないものとされているのか。そうした社会のあり方そのものが、人の命を静かに、しかし確実に干からびさせていくのだ、と語っているのです。
今日の福音書に登場するサマリアの女性も、そのような渇きを背負って生きていたようです。彼女が水を汲みに来たのは、真昼の暑い時間。本来、水汲みは朝か夕方、皆で行うものです。それにもかかわらず、人目を避けるように、ただ一人で井戸に来なければならなかった彼女の姿から、周囲の冷たい視線や、社会の分断の現実が垣間見えます。その現実のただ中で、主イエスは彼女に「水を飲ませてください」と声をかけられました。これは丁寧なお願いであると同時に、当時の常識や越えてはならないとされていた境界線を越える行為でした。主は、安全な側にとどまることも、「どちらにも言い分がある」と距離を取ることもせず境界線を越え、渇きや痛みを抱えている人の隣に立たれたのです。私たちはここで問われるのではないでしょうか。21世紀も四半世紀が過ぎた今、なおもこの世界は性別や出自、国籍の有無、学力、財力、権力のあり/なしなど、あらゆる属性によって隔てられています。その中でも、とりわけ弱い立場に置かれているのは、在留資格のない人びと、制度からこぼれ落ちた人びと、「見えない存在」とされている人々です。私が運営委員の一人としてかかわらせていただいている、「難民・移民なかまのいのち協働基金」では、毎月9日にオンラインで「ここのか祈祷会」という小さな集会を開いています。今月は特別企画の拡大版として、日本生まれのアフリカルーツの若者の声を聞きます。この方のマイストーリーは美談でも成功談でもありません。支えがなければ、声を聞いてくれる場がなければ、生きることができなかった一つのいのちの現実です。
教皇フランシスコが来日された際、「教会は野戦病院であるべきだ」と語りました。私もそう思います。しかしそれは、常に強くあれということではなく、傷ついたまま、互いの弱さを抱えながら、共に生きる者/共に生きる場所であり続けようという呼びかけであったように思います。今、あらゆるところで飢えや渇きに苦しんでいる人がいます。もしかしたら、あなた自身が、その渇きを抱えているのかもしれません。
主イエスが井戸端で出会った女性は、社会的には死んでいるのも同然の立場に追いやられていたのではないかと思います。その彼女に主は語り掛け、彼女の渇きに、生きた水を注がれました。彼女は《わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。》(4:14)との言葉を受け取り、町へと向かいます。井戸端に水瓶を置いたまま、渇いていた彼女自身が、いのちの証人とされたのです。生きた水とは、渇きを無かったことにする力ではなく、渇く現実のただ中で、なお生きることを可能にする神のいのちです。この水を受け取るということは、安全な場所にとどまることではありません。渇く人の隣に立つことを、引き受けることです。けれども、立てないときでさえ、主はなお、私たちの隣に立ち続けておられます。この水は、今も、私たちの前に差し出されているのです。(岡田)


《 来週の礼拝 》
#3月15日 午前10時30分 四旬節第4主日 礼拝
*司 式:岡田 薫牧師
*説 教:岡田 薫牧師「 今は見える 」
*奏 楽:井上志乃さん
*聖書朗読:青木比呂子さん
*礼拝当番:藏谷俊夫さん
*聖 書:サムエル上 16:1-13 (旧453)、 エフェソ 5:8-14 (新357)、ヨハネ 9:1-41(新184)
* 讃 美 歌:73番、335番、増補版17番

