2月1日「今日の礼拝堂」

顕現節第4主日 礼拝 

今週の「つどいの祈り」  神様。あなたは私たちを憐み、みもとに招いてくださいます。どんな時でも、恵に満ちたあなたを思い起し、あなたにより頼んで生きていく私たちにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。        ♪ アーメン



○顕現節第4主日 説教

                      ミカ6:1-6 コリントⅠ1:18-31 マタイ5:1‐12

        「幸いなるかな、主に信頼をおく人」

 今日の福音の日課は、マタイによる福音書5章です。この日、主イエスの話を聞こうとして集まってきた人たちは《ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った》(4:25)とありますから、一つの属性に偏らず、多様な面々だったようです。中には普段は交流を持つことがない者同士、いくばくかの緊張や居心地の悪さを感じていた人もいたかもしれません。そのような人々に向けて主は《心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである》(5:3)と言われました。《心が貧しい人々》とあるのは、謙遜や無欲ということではなく、霊肉共に打ちひしがれてどん底に横たわるような徹底的に貧しい状態にある人のことです。

主イエスの時代にも差別はありました。出自や障害の有無、性別や属性・・・それゆえに人としての尊厳や誇りをはぎとられ、周縁化された人たちがいたのです。現代においても、今まさに、軍事クーデターや武力侵攻によって当たり前の生活を奪われ、国内避難民、あるは難民として逃げることを余儀なくされ、それまで培ってきた暮らしを奪われた人たち、命の危険に晒されている人たちがいます。また属性の違いによって、基本的な人権も安全も担保されていない人たちがいます。まだ、私がそのような立場に追いやられていないというだけで、うっかりしていると先の戦争に突き進んでいった過去を繰り返しかねません。だからこそ、私たちは神の前に立ち、すぐる一週間を思いめぐらせながら、罪の告白を行い、ゆるしを願うのです。

なぜ、神の祝福はすべての人々に注がれているはずなのに、いのちを祝いあうことができず、奪い合ってしまうのか?他人を踏みつけて自分がのし上がろうとしてしまうのか?権力や力を持つ者たちが、横暴にふるまい、搾取することが許されているのか?そう問いたくなる現実問題は山ほどあります。神になぜ?と問いたくなりますが、これは神の問題ではなく、私たち人間の罪の問題です。

ここにある教えはガリラヤからはじまった神の国の福音を宣べ伝える主イエスの働きの根底にあるものです。ナザレのイエスの教えは多くの人々の関心をひき、今、主はご自分に従おうとする人々に対して、神の働きに参与するようにと呼びかけられます。そして、主に従うということがどのようなことであるかということを包み隠さず、日課の最後には“神のために生きようとする中で同胞たちから迫害され、攻撃されることもある”ということが示されています。

《憐れみ》《清さ》《平和》のために生きることは、神の業に参与する人間の積極的態度であるが、同胞からの迫害を受けることは、同じく神の業に参与する人間が忍ばねばならない受動的態度です。信仰は恵みとして与えられたものではありますがその招きに従うかどうかの選択であり決断でもあります。ゆえに、信仰者は八方美人的に何に対しても然りと言うわけにはいかないのです。初代教会の人々も歴史的な背景や民族的な背景の違いによって、福音理解に違いを感じるときもあれば混乱する場面もありました。しかしながら《人間に従うよりは、神に従うべきである》(使徒5:29)と心を決して、堪え忍びつつ、やがて「キリストのため」「義のため」の戦いは決して孤独ではないということを実感してゆくようになりました。教会という交わりが、誰にとっても安心できる場所、居心地の良いところとして用いられるように、互いのいのちを尊び、喜び、祝いあうところとなるようにと祈り願いながら歩んでまいりましょう。(岡田)

 《 来週の礼拝 》 

#2月8日 午前10時30分 顕現節第5主日 礼拝 

*司  式:岡田 薫牧師
*説  教:岡田 薫牧師「 それぞれの賜物 」
*奏  楽:若井裕子さん
*聖書朗読:小笠原里子さん  
*礼拝当番:清水美年子さん
*聖  書:イザヤ 58:1-9a(9b-12) (旧1156), コリント手紙一 2:1-12(&13-16) (新300),マタイ 5:13:20 (新6)
* 讃  美 歌:60番、68番(1,2,7,8)、聖公会282番

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