11月23日「今日の礼拝堂」

永遠の王キリストの主日 礼拝

今週の「つどいの祈り」:神様。御名をほめたたえ、ただあなたにのみ栄光を帰します。私たちを贖うために、御自身を献げら御子を主と仰ぎ、みことばに聴き従うことができるよう、聖霊によって私たちを導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン



○永遠の王キリストの主日 説教

       

エレミヤ23:1-6 コロサイ1:11-20 ルカ23:33-43

「心強い約束」

今日は聖霊降臨後最終主日。教会暦の上では、一年の終わりを迎えたことになります。巷ではすでにクリスマスソングが流れ、店内装飾やチラシにもクリスマス風のデザインが多用されています。世の中に漂う高揚感とは裏腹に、福音書の日課は主イエスの十字架の物語となっています。

十字架上で主が執り成しの祈りをされている足元では、兵士たちが主イエスの衣をわけあうためのくじ引きをしています。これは旧約聖書の預言(詩編22:19)の成就としてすべてのことが神のご計画によってなされていることを示しています。さらに議員たちや兵士たちが、主を嘲笑う中、隣の十字架につけられていた犯罪人の一人までもが、《お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。》(23:39)と言うのでした。すると、もう一人の犯罪人が《お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない》(23:40-41)とたしなめ、《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》(23:42)と、憐みを求めたのでした。これに対して主は、《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。》(23:43)とお答えになりました。この土壇場での悔い改めは、主に立ち返るのに遅すぎることはないことを示しています。福音の日課は、このように土壇場で悔い改めた人が主イエスに受け入れられたという、慰めに満ちた様子で区切られます。でも、もう一人はどうなったのか?という問いが私たちには残るのではないでしょうか?福音書を読み進めても、十字架上の会話はここまでで、昼の12時頃から3時頃にかけて全地が暗くなり、太陽が光を失い、神殿の垂れ幕が真ん中から避けた時、主イエスは最後の断末魔の叫び《父よ、わたしの霊を御手に委ねます》(23:46)と言われたのち息を引き取られます。二人の犯罪人についてはヨハネによる福音書の記事に頼るほかありません。そこには、十字架からおろされた二人はとどめを刺すように足の骨を折られ、主は息を引き取っておられたのでそのまま十字架からおろされた、とあります。ここにいる私たちの多くは、どこかで主イエスとの出会い、創造主なる神との出会い、かつても今も後も生きて働いておられる聖霊との出会いを与えられ、「イエスこそキリスト」と信仰を告白する恵みを与えられています。しかし、十字架にあげられていた犯罪者たちは最後の最後になってようやく主とまみえ、ひとりは悔い改めを示し、ひとりは毒づきながら死んでいきました。もし、神を知らず、主を知らず、聖霊を知らず、真実の愛を知ることが無ければ、私たちもこの人のようになるかもしれません。主は目を逸らし、逃れることが真の救いなのではないということを、この十字架上で明らかにされました。そう、どんな時でも悔い改めるに遅すぎるということはないと教えておられるのです。そして、自らが冥府までくだって、なぜ罪のないお方が十字架について死なねばならなかったかということを明らかにされました。それは、どこまでも罪人と伴い、罪から救うため、滅びからいのちへと招くためです。

神の子でありながら、人々の罪を背負い、この世で最も惨めな姿を晒し、十字架の上で想像を絶する痛み苦しみを引き受けるお方が、私たちの永遠の王キリストです。このお方を救い主と仰ぎ見る時、このままならない現実の中で既に楽園が実現しているのだと、聖書は語ります。“あなたは罪赦された罪人、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる”、という心強い約束を私たちは受け止め、希望を託し、新しい年を迎えましょう。(岡田)

         
《 来週の礼拝 》                 

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