10月5日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第17主日 礼拝

今週の「つどいの祈り」:慈しみと憐れみに溢れる神様。私たちが虚しい時に満たし、信仰が弱い時に強め、愛が冷めた時に温めてください。御子に倣って隣り人を愛し、仕える熱い心を私たちに与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン



○聖霊降臨後第17主日 説教


  ハバクク1:1-4,2:1-4 テモテ二1:1-14 ルカ17:5-10

「信じて委ねる」 

《わたしどもの信仰を増してください》(17:5)という言葉が弟子たちから出てきた理由としては、彼ら自身、主が語られた躓きは避けられないという話しを聞きながら自らの限界を痛感させられたからではないかと思います。この願いには、深い知識、豊かな知恵、慎み、おおらかさ、揺るがない精神、など非の打ち所のない人としての成熟した状態へのあこがれのようなものが見えます。大きな心と深い信仰があれば、主が言われるような人物になれるだろう・・・という思いです。これには、私たちも共感し同意できそうですね。しかしながら、このような考え方は、主イエスが教えられていることとは一致しないということが《「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17:6)という言葉によって明らかになります。

ユダヤの文化の中で、からし種はことわざの中で非常に小さなものを表すためによく使われていました。また、この地域によく見られる黒桑の木は、その深い根と回復力で知られています。だからこそ、それを根こそぎ引き抜くというイメージは、信仰によって成し遂げられる、一見不可能に思える業を象徴しているのです。《『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。》というのは誇張した表現ですが、信仰の奇跡的な力を強調しています。海は混沌と未知を象徴するものとして用いられることが多く、神の被造物に対する主権を示す背景となっています。もちろん海に木を植えるという行為は不可能なことですが、神への信仰を通して得られる超自然的な可能性を示唆しているのです。

この比喩は、信仰の力を、その量ではなく質、そしてその信仰の対象である神へと目を向けるようにと私たちを促します。つまり、弟子たちの考えが見当違いであった理由は、《わたしどもの信仰》という言葉に表れているように、信仰を獲得するものように理解している点です。神の恵みとして与えられるものを自分の力で勝ち取るようなイメージです。自分の力量、あるいは自分自身から全てがはじまるように考えるところが、そもそもの躓きでなのだ、と主は教えられるのです。《信仰》とは、信じることだけではなく、行動と従順が伴います。桑の木比喩は、信仰には神の約束に基づいて行動することが必要であることを示しています。つまり信仰は、神の主権と、不可能を可能にする神の能力を理解することに根ざしている必要があるというのです。そう《からし種一粒ほどの信仰》というのは、神への信頼と服従、信じて委ねるということなのです。

この物語は、神に従うということは、報酬や承認を求める気持ちではなく、愛と尊敬の気持ちからであるべきであり、たとえ私たちの奉仕に対して感謝を受けられないとしても、奉仕できるのは神の恵みによるものとして、愛の応答なのだと語りかけます。信仰は、自分の信念や強さ、立派さによるものではありません。決して贖うことのできなかった罪を主イエスによって贖われ、赦され、罪赦された罪人として赦しと恵みのうち生かされる喜びを知らされた私たちは、愛されているからこそ愛する者、赦されているからこそ、赦す者として生きるようにと促されているのです。 (岡田)

        

《 来週の礼拝 》                              

#10月12日 午前10時30分 聖霊降臨後第18主日 礼拝 
*司  式:岡田 薫牧師
*説  教:岡田 薫牧師「途中で 」
*奏  楽:井上志乃さん
*聖書朗読:青木比呂子さん  
*礼拝当番:楢戸恵子さん
*聖  書:列王記下 5:1-3,7-15 (旧583), テモテ手紙二 2:8-15 (新392),ルカ 17:11-19 (新142)
* 讃  美 歌:289番、357番、増補版16-1番

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