9月14日「今日の礼拝堂」

聖霊降臨後第14日 礼拝

今週の「つどいの祈り」:慈しみと憐れみに溢れる神様、あなたは迷う者を連れ戻してくださいます。あなたに背くすべてを退け、命をはぐくむすべてに従うことができるように、あなたの民を愛のうちに守ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン

○聖霊降臨後第14主日 説教

                   出エジプト32:7-14 テモテ一1:12-17 ルカ15:1-10

  「 大きな喜び 」

主イエスがこれらのたとえ話を語られた背景には、ファリサイ派や律法学者たちからあがっていた批判の声がありました。彼らは徴税人や罪人たちが主イエスの話を聞こうと集まって来るのを見ると“あのような罪深い者たちと関わりを持つなんて・・・”と主が彼らを受け入れ、食事を共にされることを非難していました。彼らは不道徳な人々だけでなく、不正直な行為を含むことになる職業や、定まった儀礼を守ることの出来ない生活をしている人、異邦人と関わりを持つ生活をしている人々を“罪人”と見なしていました。遊牧の民である羊飼いたちも「地の民」と呼ばれ、ファリサイ派の人々は関わりを避けていました。しかし主イエスは、誰とでも食卓を囲み、共に食事を楽しみ、語らい、恵みをわかちあわれます。人と人との間にある隔ての壁を取り払い自由自在に振舞われるのです。

主がたとえを用いて語られているのは、単に宗教エリートたちの考え方を否定するのではなく、無意識のうちに彼らが陥っている罠から救い出すためのように感じます。やりとりの重要なポイントは、救いがどこから来るのか、誰が救いの主導権を持っているのかという点です。

ファリサイ派や律法学者たちは、律法を守り、忠実に従うことによって救われる、という考え方を尊重していました。しかしこれは、自らの業(わざ)によって神に近づける、あるいは救いに到達できると思い込んでしまう危険性があります。時折、神に従っているようであっても愛を忘れてしまっているような彼らの言動が見られますが、そのような時、人は神の深い憐れみや愛の世界から自分たちの思い描く別の道、罪の道に彷徨いだしている状態だと言えるでしょう。

たとえに出てくる群れから見失われてしまった一匹の羊、見失われてしまった1枚のドラクメ銀貨は、《悔い改める一人の罪人》を指しています。この悔い改める一人の罪人とは誰のことでしょうか。それは、主が食卓に招かれた一人ひとりであり、ファリサイ派や律法学者たちでもあり、この物語を福音として聞こうとしている私たち一人一人のことです。主はご自分の話を聞きながら「自分は大丈夫」、そう思い込んでいるような人々に対して、あなた自身が見失われていたにもかかわらず見いだされた存在なのだ、ということを教えられるのです。そして、たとえ私たちが神から遠く離れてしまっていることに気づかなくても、失われていることに気づいていなくても、神は物語に登場する羊飼いや女性のように、決して諦めず、失われたものを見いだそうと真剣に私たちに向き合ってくださるお方なのだ、と力強く語られるのです。そして、見つけ出したときには天には大きな喜びがあるのだと。

《人の子は、失われたものを捜して救うために来た》(ルカ19:10)とあるように、私たちは“主が私たちを/私を見いだすために来てくださった”ということをあらためて知る必要があります。そして、主の愛の眼差しの中で今生かされている喜びを共に祝うようにと招かれていることにも。そのために御子主イエスは世に下り、その命を十字架に渡すことによって私たちに対する愛を顕(あきら)かに示してくださいました。

私たちはこのみ子を通して与えられた赦し、救い、永遠のいのちへの約束に気づかされたからこそ、教会に連なり礼拝へと導かれています。神を知る恵み、神に知られている恵み。私という一人の罪人が神へと立ち返ることが出来たことを神は喜んでくださっています。その喜びを私たちも共に喜ぶ者でありましょう。(岡田)


          

《 来週の礼拝 》                              

#9月21日 午前10時30分 聖霊降臨後第15主日 礼拝 
*司  式:小泉 基牧師
*説  教:小泉 基牧師「それは正しいか 」
*奏  楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:楢戸恵子さん 
*礼拝当番:青木比呂子さん
*聖  書:アモス 8:4-7 (旧1439), テモテ手紙一 2:1-7 (新385),ルカ 16:1-13 (新140)
* 讃  美 歌:170番、401番、増補版 38番

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