2月9日「今日の礼拝堂」

顕現節第5主日礼拝

今週の「つどいの祈り」:   神様。世はあなたの救いを待ち望みます。日々の生活の中で思い悩む私たちを、信仰による平安へと導いてください。あなたの救いが完成するその日まで、いつも共におられる救い主、主イエス・キリストによって祈ります。  ♪ アーメン


○顕現節第5主日 説教



               イザヤ6:1-13 コリント一15:1-11 ルカ5:1-11

 「 しかし、お言葉ですから 」

ナザレを後にされた主イエスは湖のほとりのカファルナウムに降って行かれました。そこでは、けがれた霊に取りつかれた男の癒しや多くの病人の癒しが行われ、その中には今日の物語で弟子となるシモン・ペトロの姑もいました。福音書記者ルカの記述によると、この頃はまだ主は一人で福音宣教に励まれていることがわかります。噂を見聞きした人たちは、どこにでも主を追いかけていくような事態になっていて、日課には《イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた》(5:1)とあります。それで主は、ご自身のスペースを作るためにも、岸に寄せてあった舟を少し沖に漕ぎ出すように頼まれたのです。

シモンの舟に腰を下ろされた主は、岸辺の群衆にひとしきり教えられ、その話しが終わると同時に物語は展開してゆきます。主イエスは突如シモンに向かって《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》(5:4)と言われたのです。思わずシモンは《先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉通ですから、網を降ろしてみましょう。》(5:5)と答えています。《沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい》という主の言葉は、シモンの漁師としての自尊心を傷つけるようなものであったかもしれません。けれども、シモン自身も彼の舟の上で群集に向かって《神の言葉》を語る主イエスの姿から、何かを感じ取っていたはずです。その証拠として、シモンは主に対して《先生》と呼びかけていますし、最終的には《主よ》と呼びかけるまでになっています。

この主イエスに対する呼びかけが変化するにしたがって、シモン・ペトロと主イエスとのかかわりが変化しているように思うのです。というのも、彼は最初から素直に従っているというよりも、信頼もあるけれど自分の生業について指摘されることには反発心もあったと思います。ただ、主の言葉に対する反発や戸惑いがあるものの「しかし」という思いのほうが少しばかり勝った…ということではないかと思うのです。自分の考えや思いを貫くか、主イエスの言葉に従うか・・・彼の心の中には葛藤が生まれ、主の言葉にかけてみようという思いが少しばかり勝ったのです。「しかし、お言葉ですから・・・」という彼の言葉の中にはそのような葛藤が確かにあったのでしょう。そして、この葛藤こそが彼を信じない者から信じる者へと変えてゆく一つのきっかけとなったのです。

主イエスの言葉にかけてみたシモンは、大漁という奇跡を通して神の確かな力を感じます。思いがけない恵みに与ることになったシモンは、それと同時に、聖なるお方の前に立つ自分が何者であるかをも知らされるのです。だからこそ、足元にひれ伏して《主よ、わたしから離れてください》(5:8)と叫ぶのです。彼は主イエスの神としての清さ、正義、威厳に触れることによって、畏敬の念を抱くと共に、自分自身の頼りなさ、罪深さを痛感するしかなかったからです。そして、彼の主に対する認識がいつしか「先生」から「主よ」へと変えられたのです。それは、彼の仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同様でした。そのような彼らに向かって主は《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる》(5:10)と語りかけられます。これは、「わたしの言葉に信頼して従ってきなさい」という主イエスからの力強い招きです。そして、シモンや仲間たちの恐れを砕くには十分なものでした。つまりこの物語は、神の子、救い主としての主イエスの弟子たちに対する顕現物語でもあるのです。                  
       
《 来週の礼拝 》                              

#2月16日 午前10時30分 顕現節第6主日 礼拝 
*司  式:小泉 基牧師
*説  教:小泉 基牧師「石垣あるいは祝福される人々」
*奏  楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:小川淳子さん
*礼拝当番:藏谷俊夫、小笠原里子さん
*聖  書:エレミヤ 17:5-10、コリント手紙一 15:12-20、ルカ 6:17-26
* 讃  美 歌:189番、398番、讃美歌575番

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