11月24日「今日の礼拝堂」

永遠の王キリストの主日 礼拝  


今週の「つどいの祈り」:      全能・永遠の神様。あなたは愛する御子に油を注ぎ、永遠の王なる大祭司とされました。罪のゆえに分かれた地上の民を、御子イエス・キリストの愛の支配で一つにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 ♪ アーメン


 

○永遠の王キリスト/聖霊降臨後最終主日 説教

                    ダニエル7:9-10,13-14黙示録1:4b-8ヨハネ18:33-37

           『キリストを待ち望む』

ヨハネ福音書には「人々はわたしのことを何と言っているか?では、あなたがたはわたしのことを何者だというのか?」という主イエスと弟子たちのやり取りの場面はありません。けれどもここで少し形を変えた形で同じような問答が展開されるのです。他の福音書では主イエスが弟子たちに問いかけたのとほぼ同じ内容の質問がローマ帝国を代表している総督ピラトに向けて問われている。つまり主がここでピラトに投げかけている問いと言うのは、世に向けての問いであるともいえるでしょう。つまり、主イエスに対面しているわたし、今福音を聞いているあなたも問われている一人であると言えるのではないでしょうか。そしてこの問いは、ただ問いかけられているだけでなく、主イエスご自身が《わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く》(18:37)と肝心なところへ私たちを導きます。これは、私たち自身が主イエス・キリストを、真理を語る/真理を証する/真理そのものを生きるお方として認識し、この方が私たち一人ひとりと関わってくださることを知る。そして、その主イエス自ら私たちがそのように主を受け止めることができるように招いてくださっている/私は主の招きのうちに生かされている、ということを知らされる出来事なのです。すでに主は17章で《真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです》(17:17-19)と父に向って祈っておられます。主が言われる「真理」というのは、何か理屈として定義されるようなことではなく、ご自身を献げられるキリストの存在と関りから私たちにもたらされるものです。そして、私たちは繰り返し、繰り返し知らされてゆくのです。十字架の出来事が起こってしまうのは、主イエスご自身のみ言葉を信じることを通して、本当の意味で、まさしく「真」に、キリストを信じる全ての者が、様々に罪や限界や問題を抱えつつ、にもかかわらず、神に赦された聖なる者として、神に愛され生き生きと生きる者とされていく・・・。そのことを神が、神に等しい神の子が命を賭けて、私たちにもたらしてくださった。そこに私たちが信頼し、つながっていく・・・そこに導くために、主は今ピラトの前に立っておられる。そして、「あなたはどう考えるのか?」と目の前のピラトに、そして私たちに問いかけておられるのです。

主イエス・キリストご自身を通して示され、信仰の約束として与えられている、私たちの真(まこと)の救い、赦し、命としての真理のみ言葉に聞きなおしていきながら、過ぎた日々の守りと導きに感謝しましょう。そして、真の(まこと)の王であるこのお方に信じて従っていく一人一人として、そのような群れである教会として歩んでいく決意を新たにし、主の御降誕を祝う時をご一緒に迎えましょう。私たちの主なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが私たち一同と共にあるように。今日は教会の暦では「永遠の王キリスト」という名前の付いた年末の主日です。教会の暦は待降節から始まりますが、最初の約半年で、待降節、降誕節、顕現節、四旬節、復活節とイエス・キリストの生涯をたどるように設定されています。そして、聖霊降臨を境にして、続く半年は聖霊の豊かな導きによって、私たち一人一人の信仰者、そして教会が主によって養われ、育てられていることを深く味わうことができるためにその日の日課が定められています。現在採用している聖書日課も、A,B,Cと三年周期のものですから、主にマルコによる福音書から聞いていた一年が今日で終わります。

礼拝の度に私たちは信仰告白をします。主に使徒信条を用いていますが「天地の造り主、全能の父である神をわたしは信じます。そのひとり子、わたしたちの主イエス・キリストをわたしは信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊をわたしは信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活と永遠のいのちを信じます。アーメン。」と毎週唱えているわけですから、今私たちが生きている/生かされているこの時は世の終わり、終末に向かっている最中にあり、いつその時が来てもいいように私たちは心備えをしています、と告白しているのです。

れども、実際のところは、「いやそんなことを言われても、私はそれほど、切迫感をもって世の終わりに向けての準備なんてしていない。どうしよう・・・」と戸惑われる方もおられるかもしれません。実は私自身もこの世の終わりをどのくらい真剣にとらえているか?と問われると、何となく再臨のキリストと聞くと、真剣に取り組む前に「怪しい輩ではないか」と疑ってしまうことが身についてしまっているように感じます。常に見つめているようでいても、切迫感も真剣さもさほど強くないような、特段意識しているのかいないのかあやふやな・・・という何度も心もとない状況です。

主の復活と召天から2000年以上も経た現在に生きている私たちにとって主イエスの弟子やその弟子たちくらいまでの時代の人たちと比べ、主の再臨という出来事があまりリアリティのないもののように思えるのも無理ないことなのかもしれません。でも、だからこそ、教会暦で一年の締めくくりとなるこの日、そして新しい年を迎える最初の主日である来週の日課において、世の終わり、終末について私たちが真剣に思いを巡らせるように促されているように感じます。

福音の物語は、捕えられた主イエスがポンテオ・ピラトのもとで取り調べを受けている場面です。このあたりの箇所はあまり好んで読むようなところでも、親しみを感じるところでもありません。しかし福音書記者ヨハネは捕らえられた後の主イエスの足跡を丁寧に書き残してくれているので、私たちはあの晩に主イエスが体験された一つひとつをたどることができます。過ぎ越しの食事の席から裏切り者が出て行ったあと、主は真の栄光をお受けになるためにすべての事を引き受け、成し遂げることができるようにと祈りを捧げられます。そして、キドロンの谷の向こうにある園に入られた後、捕縛されるのです。

ダと共に現れたのは兵士や祭司長やファリサイ派から遣わされた下役たち。まるでこれから大捕り物となることを予想しているかのように武装した人々です。しかし、松明を持った人々を前に主イエスは《だれを捜しているのか》(18:4)と問い、ナザレのイエスを捜しているとの声をお聞きになると、自ら《わたしである》(18:5)と言って進み出て逆らうことなく縛られました。弟子たちの戸惑いや混乱とは裏腹に、主イエスはただ静かに父がお与えになった盃を飲み干すために歩みをすすめられます。大祭司の前に引き出されても、ペトロに知らないと言われても、主はただ静かにご自身の身に起きることを引き受けられます。そして、ローマ人でありユダヤの民を支配している権力者側にあるピラトの前に引き出されても同じです。既に明け方になっていたようですが、主イエスを引き回しているユダヤ人たちはピラトの家には自ら入ろうとはしません。汚れなく過ぎ越しの食事をするためとあるように、彼らは自分たちを支配している異教徒・異邦人たちを汚れたものとして蔑みつつ、征服者たちの権威をもって主イエスを亡き者にしようと企んでいます。ピラトは総督ではありますが、結果的に自部自身が官邸中を動き回りながら、尋問し調べていかねばなりません。ユダヤ人たちが罪人として訴え、引き出してきたナザレのイエスについて実際にどのように扱えばよいのか戸惑っている様子が少々滑稽に見えます。ピラトは《お前がユダヤ人の王なのか》(ヨハネ18:33)と主に直接問いかけています。これに対して、主イエスは《あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか》(ヨハネ18:34)と問い返しておられます。尋問される側の態度ではありません。さすがにピラトもムッと来たのか《わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たち、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか》(18:35)と為政者としてお前の命は自分の意のままであるぞと言わんばかりです。主がここでピラトに問われていることは、「あなた自身の考えはどうか?他の者はどう言っているのか?」ということでした。この問答、どこかで聞いた覚えがあるのではないでしょうか?そうです他の福音書、マタイやマルコやルカでは、フィリポカイサリアで主イエスがペトロから「あなたは神の子メシアです」という信仰告白を導きだしていくときのやり取りとよく似ています。(岡田)       


《来週の礼拝》                              

#12月1日 午前10時30分 待降節第1主日 礼拝 
*司  式:岡田 薫牧師
*説  教:岡田 薫牧師「その日に備えて」
*奏  楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:清水美年子さん
*礼拝当番:小笠原里子さん
*聖  書:イエレミヤ 33:14-16、テサニニケ信徒への手紙一 3:9-13、ルカ 21:25-36
* 讃  美 歌:1番、9番、教団96番
                              

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA