「廃墟よ、歌え。」

「廃墟よ、歌え。」

[2025年12月21日] 主の降誕主日 小泉基牧師

ヨハネ1:1-14 イザヤ52:7-10 ヘブライ1:1-4 

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。こうしてクリスマスの礼拝をともに守ることができますことを感謝します。しかし、もし私たちがこの日に、神とは誰か、クリスマスとは何かを真剣に問おうとするなら、私たちは葛藤を抱えざるを得ません。イエスが来られた世界は、矛盾と混沌に満ちているからです。
 私たちが仰ぐ神は、日本の多神教的な「人と神が連続する存在」ではありません。山や池、英雄や偉人を神とする文化とは異なり、聖書の神は唯一であり、有限な私たちとは本質的に隔てられた無限の存在です。時間と空間に制限される私たちと、永遠に偏在する神との間には、埋めがたい断絶があります。本来、神は完全で自立した存在であり、不完全な世界に関わる必要はありません。そうであるなら、神は、居心地の良い完結した部屋で、その完成を謳歌していても良かったのではないでしょうか。ところが、それでも神は扉を開き、この混沌の世界に降り立たれた。無限が有限をまとい、永遠が時間に入り、全能が無力となる――そこにクリスマスの神秘があるのです。


 しかし、そこでわたしたちは立ち止まらざるを得ない。神が関わっておられるはずの世界が、なぜこれほど暗いのか。ガザの廃墟、ミャンマーの空爆、難民の子どもたち。私たちはテレビ越しに破壊された町を見続けています。ミャンマーでは軍事クーデター以降、民主化を願う人々や少数民族が山岳地帯に逃れ、国軍はその避難地域を空爆しています。わたしたちが今年のクリスマス献金を献げるアトゥトゥミャンマーのフェイスブックによれば、つい先週も、人々が避難する地域の病院が空爆されたのです。そこでは、病院の建物が破壊され、新生児を含む33名の命が奪われ、さらに多くの人たちが重軽傷を負ったのだといいます。ガザで、ミャンマーで、その瓦礫の中でクリスマスを迎える人々は、どのような思いでイザヤの「廃墟よ、喜び歌え」という預言を聞くのでしょうか。救い主が来られたというのなら、なぜ世界はなお暗闇に閉ざされているのでしょうか。
 平和が来ないのは、神が全能でないからでしょうか。それとも、平和が来ないと嘆く私たちが短気すぎるのでしょうか。しかし、このクリスマス。ここで問われるべきは神ではなく、私たち自身です。傷つくことを恐れ、変化を避け、居心地の良い殻の中に閉じこもりたがるのは誰か。世界の平和を嘆きながら、自分の変革には臆病な私たちこそが、暗さを抱えているのではないでしょうか。礼拝堂の中で美しい賛美の歌声に浸りながら、世界の痛みには一歩距離を置いてしまう――その矛盾を抱えているのは私たち自身です。


 ヨハネ福音書は「命は人間を照らす光であった」と語ります。暗さは世界よりもまず私たちの内側にあります。しかし神は、その暗さを放置されません。そのためにこそ、神は完結したご自身を破り、この世界に踏み出された。クリスマスは、その神の関わりが明らかになる日です。神は、私たちの暗さを照らし、変革へと招いておられます。その光は「すべての人を照らす」と言われています。すべてというなら、私たちもそこに含まれます。私たちが輝くのではなく、主が輝き、その光に照らされることで、私たちが世の光となっていくのです。神の働きが遅いのではありません。遅いのは変革を怖れている私たちの方です。神は、世界の暗さの原因ではなく、光となる者として私たちを派遣なさる方です。
 このクリスマス、私たちは光に照らされ、平和のためにこの礼拝堂から送り出されていきます。キリストが人となられた神秘を、共に喜び、感謝して歩んでいきたいと思います。       -了